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2011年はこちらから
僕が生まれました
羽曳野市五軒家
今の豊川病院の南側
竹之内街道沿いに面しています
竹内街道わらべ歌
雨は降るふる 古市で
傘を借るかる 軽墓で
馬に乗るのる 野々上で
馬が死ぬしぬ 新田で
コロッと落ちたら五軒家の坂で
金は樫山 もって郡戸(こおず)
煙草一ぷく のむ野村
丹南 松原 麦どころ
一石播いて 八斗どり
せんど歩いて またくらの
前足に 大豆塚でけました
先日、田中市議からこの歌の全文が見つかったとお聞きしました。時間が出来たら教育委員会へお聞きしに行こうと思います。
履中天皇の御歌が古事記に五軒家が埴生坂として紹介されています
波邇布(はにふ)に到りまして、難波の宮を見やりたまへば、其の火なほ炳(あか)くみえたり。かれ天皇また御歌はしけらく
埴生坂 我が立ち見れば かぎろひの 燃ゆる家群 妻が家のあたり
当麻路物語はこうである、
去来穂別王(いざほわけのきみ)履中天皇が難波宮にいた時、弟の住吉仲皇子(すみよしのなかつみこ)が叛乱を起し、天皇を討ち取ろうと思って、火を御殿に放った。そのため天皇はアチ直(あたい)に連れられて密かに、倭に逃げたのである。
波邇布(はにふ)に到りまして、難波の宮を見やりたまへば、其の火なほ炳(あか)くみえたり。かれ天皇また御歌はしけらく
埴生坂(はにふざか) 我が立ち見れば かぎろひの 燃ゆる家群(いへむら) 妻が家のあたり (古事記)
【通釈】埴生坂の上に立って眺めると、燃えている家々が見える。妻の家のあたりが。
【補記】古事記下巻。難波の宮を住吉仲皇子によって焼かれた天皇が、波邇賦坂に至って、なお燃えさかる宮を望見しての詠。説話を離れて読めば、春、陽炎のたつ妻の郷里を眺めての、のどかな国見歌になる。
言い伝えでは私の母屋の有る樫山には反正天皇(はんぜいてんのう、406年2月3日〜410年2月12日)の離宮が有ったと事、ヒガイノ古墳は反正天皇の子女である高部皇子(たかべのおうじ)の古墳であり、発掘によりますと、後に古市大溝建設に当たり古墳の半分が削り取られており、古市大溝が国家プロジェクトで有った証拠である。
ただこの言い伝えは亡くなった親父から聞いた者で定かでは無い。
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